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1:林 久治
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2025/02/08 (Sat) 20:32:48
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https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_878100/878041/full/878041_1739014368.jpg
団長様
埼玉県東部の銅像を3基投稿します。最初の2像は、「new日本の銅像ギャラリー」の埼玉県東部欄に収録されていません。3像目は、「new日本の銅像ギャラリー」の埼玉県東部欄に収録されていますが、新規情報を投稿します。前回の投稿でも書きましたが、「new日本の銅像ギャラリー」の埼玉県東部欄に「八瀬市」との記載があります。しかし、これは誤記載ですので、「八潮市」とご訂正下さい。
上松丑松(草加市)
設置場所:埼玉県草加市吉町2-1-60 上松輸送草加事業所正門横
制作者:不明
設置時期:1971年3月
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:上松丑松氏(1903年2月25日—1962年4月27日)は新潟懸北蒲原郡安田村(現:阿賀野市)に生まれ、1918年に上京して日本橋区住吉町村宗商店に入社。1935年に独立して草加に上松輸送店を設立し、東京都の糞尿を埼玉県東部地域の農村に還元する業務に従事。本像横の説明パネルには、以下の記載がある。
故上松丑松氏は、明治三十六年二月二十五日、新潟懸北蒲原郡安田村字保田に生まれ、負けず根性で近隣に知られ、大正七年十月上京、東京市日本橋区住吉町村宗商店に入社。其の後時代の移り変わりに卓越な手腕と持ち前の根性で、昭和十年五月、埼玉懸北足立郡草加町吉町に上松輸送店を開業。社長に就任し大家族主義にして人間味溢れるなかに仕事への厳しい指導と慈父のような温情は、役員従業員の敬慕のまとであった。社長の仕事に對する並々ならぬ意欲は、昭和二十六年六月、東京都港区芝新堀町二十八番地に上松輸送株式会社を設立し、事業の拡張發展を計り今日の基盤を確立した。昭和三十三年五月、多年に亘る清掃事業の功労に對し、東京都知事賞を受けた。しかし余りの激務に大樹の倒れるが如く逝ってしまった。時に昭和三十七年四月二十七日であった。最期まで偉大な指導者であった社長の徳を偲び、創立三十五周年を記念して従業員役員一同胸像一基を建立して、ながくその功労をしのびたいと思います。 昭和四十六年三月建立
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2:林 久治
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2025/02/08 (Sat) 20:34:29
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https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_878100/878041/full/878041_1739014470.jpg
上松康男(草加市)
設置場所:埼玉県草加市吉町2-1-60 上松輸送草加事業所正門横
制作者:北井博文(1951年に兵庫県南あわじ市出身)
設置時期:2017年2月
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:上松康男氏(1933年1月12日—1993年10月)は、上松丑松氏の長男として生まれ、1958年に早大卒業後、上松輸送に入社。1962年に初代丑松社長の死去により、二代目社長に就任した。本像横の説明パネルには、以下の記載がある。
故上松康男氏は人生の師と仰ぎ、心底敬慕し多くを学んだ初代丑松社長の死去により、二代目社長に就任した。康男社長は昭和八年一月十二日、初代丑松社長の長男として生まれ、都立八中(現都立小山台高等学校)を経て、昭和二十七年四月、早稲田大学第一商学部の入学。昭和三十三年卒業。(同期に前清掃局長、原 達人)同年四月上松輸送入社、監査役に就任。昭和三十四年取締役、翌三十五年専務取締役として会社経営の重責を任され、先代社長の右腕として社内を取り仕切り、対外的には先代の代理として協会や清掃局をはじめ、各区役所等では手腕を認められ、社業伸展に実績をあげた。康男社長は、入社の瞬間から次期社長を自覚し、先代から会社運営の全てを学んだ。東京環境保全協会、日本環境保全協会では、常任理事として、業界の発展と会員の団結のため尽力された。
更に、康男社長は記憶を辿るようにオリンピック東京大会では、協和興業、中野運輸、東海輸送、淀橋清運と共に代々木会場のごみを毎日2~3回運搬、終始きれいな状態に保つことが出来たことを誇りに思っていた。昭和六十一年六月、創立五十周年を迎える。記念のメダルを制作。メダルの表は弊社ノロゴマークと「50TH ANNIVERSARY」を、裏には「美(意:良い、立派、健康、美しい、豊か)」と「Contribute to the environment for better Living(意:住み良い生活環境に貢献する)」を表記。昭和六十三年十一月、社屋老朽化に伴い旧社屋を取り壊し、新社屋完成を見た。
初代丑松社長、二代目康男社長の意思を引き継いだ三代目正社長は会社を更なる成長発展する為に平成二十七年五月、創立八十周年に伴い草加事業所新社屋建替えの完成を見た。また。テナント業を新規展開した。
二代目康男社長の数々の功績を記念し従業員役員一同胸像一基を建立して、ながくその功労をしのびたいと思います。 平成二十九年二月建立
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3:林 久治
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2025/02/08 (Sat) 20:36:05
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https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_878100/878041/full/878041_1739014566.jpg
中村重太郎(越谷市)
設置場所:埼玉県越谷市レイクタウン9-42 レイクタウン湖畔の森公園
制作者:立体写真像 盛岡勇夫
制作時期:1939年4月
現地移設:2008年
画像提供:ヒロ団長
林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:中村重太郎氏(1871年—1941年12月9日)は、平安時代に当地に定住・開拓を進めた大相模氏の25代当主。 1889年、7つの村が合併した大相模村(現・越谷市)の誕生に伴って、初代村長となり、後、8期32年勤め上げることとなる。村長時代に外来種を中心とした養鶏事業を積極的に導入し、地域の発展に尽力する。本像前の説明パネルには、以下の記載がある。
中村重太郎翁 1871年(明治四年)~1941年(昭和十六年)
大成町二丁目地内・大相模中村家二十五代当主
中村重太郎翁は、明治二十二年(1889年)、西方・東方・見田方に三分されていた旧大相模郷三か村に中川沿いの南百・四条・別府・千疋の四か村を加えた新しい大相模村の誕生に伴い、その混沌とした創世記の初代村長を務め、その後、8期32年間の長い期間、体制の整備と地域の新興とに尽力した。
特に、外来種を核とした養鶏事業(当地における養鶏盛行の証として相模町六丁目・大聖寺の境内に「鶏魂碑」が建てられている)の積極的な導入には、今に語り継がれる功績がある。
この銅像の建立は、太平洋戦争勃発の翌日に死亡した翁の無欲で謹厳な人柄を偲び、その功績を讃えた、困窮時における村民の篤志に依るものであ
なお、翁の家系は、平安時代末期に当地に定住・開拓を進めた武蔵七党野与党の一族、初代大相模次郎能高以来継承されているが、近世郷村制の施行後は、居住地東方が「中の村」になることから「中村」に改姓、同村上組の名主を世襲している。 越谷市