銅像情報共有掲示板

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新宿区の銅像 - 林 久治 URL

2022/10/05 (Wed) 09:39:45

今回は、新宿区の銅像を2基投稿します。本像は「新日本の銅像ギャラリー」に収録されていません。
佐藤重遠・フユ夫妻(新宿区)
設置場所:東京都新宿区中落合4-31-1 目白大学佐藤重遠記念館横の庭園
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
制作者:立体寫眞像発明者 盛岡勇夫
建立時期:不明
設置経緯:1923年、佐藤夫妻は東京都新宿区の現在地に研心学園(目白学園前身の男子校)を創設。目白学園の略年表は次の通りである。
1923年:佐藤重遠・フユにより東京都新宿区の現在地に研心学園(男子校)を創設。初代理事長に佐藤重遠就任。
1929年:財団法人目白学園設立。
1930年:目白商業学校を設置。
1934年:佐藤フユ、第2代理事長に就任。
1944年:目白商業学校を目白女子商業学校(女子高)に転換。
1948年:学制改革により、目白女子商業学校は目白学園高等学校と目白学園中学校に改組(2009年より、共学)。
1955年:目白学園遺跡(落合遺跡)第一次発掘調査完了。
1956年:佐藤重遠、第3代理事長に就任(1964年まで)。
1963年:目白学園女子短期大学を創設し、英語英文科を設置。
1983年:創立60周年記念式典を挙行、佐藤重遠記念館竣工。
1994年:埼玉県岩槻市に「岩槻キャンパス」を開設し、目白大学を創設。
2000年:目白学園女子短期大学は目白大学短期大学部に改組される。
2009年:埼玉県和光市に「国立埼玉病院キャンパス」を開設。

Re: 新宿区の銅像 - 林 久治 URL

2022/10/05 (Wed) 09:41:48

佐藤重遠(じゅうえん、1887年12月17日 - 1964年1月5日)は、日本の政治家、教育者、事業家。衆議院議員(4期)。重遠の略歴は次の通りである。
宮崎県延岡市出身。赤貧の中で素封家の知遇を得て、延岡中学校から第一高等学校を卒業。1914年、東京帝国大学法科大学を卒業し、三菱合資会社入社(1921年まで)。1922年、市来乙彦大蔵大臣の秘書官となる。1923年4月、私財を投じて夫人フユとともに落合の高台に研心学園(目白学園の前身)を創設。生涯を学園の発展に捧ぐ。学校経営に情熱を傾けるかたわら、中央生命保険株式会社の経営陣に加わり、1924年より合計4期にわたり衆議院議員として国政に携わり、大蔵常任委員長など歴任す。1963年11月、長年の教育功労によって藍綬褒章を受賞。教育功労ならびに国政への功績により正五位に叙され、勲三等瑞宝章を授与される。

Re: 新宿区の銅像 - 林 久治 URL

2022/10/05 (Wed) 09:46:45

佐藤フユ(1898-1958)は衆議院議員床次竹二郞(逓信大臣、鉄道大臣、内務大臣などを歴任、1867-1935)の二女、東京女子高等師範学校出身。フユが目白学園の経営に参加した経緯は次の通りである。
堤康次郎と佐藤重遠は1924年、衆議院選挙へ同時に立候補して当選し政界へ進出した。だが、佐藤重遠は中央生命保険での背任行為が発覚し、1934年に懲役2年の判決を受け議員を辞職をした。さらに、1937年には衆議院選挙での選挙違反を問われて禁錮4ヶ月の判決を受け、以降は政界へ復帰することはなかった。学校の創設者であり理事長が、上記のようなありさまだったので、実務をまかされていた教育現場のスタッフたちはたいへんな思いをしただろう。「先生、警察に二度も捕まらないでください! 生徒や親たちに示しがつかない」と、誰もが思っていたにちがいない。佐藤重遠は最初の逮捕のとき(1934年)理事長を辞職して、かわりに妻の佐藤フユが同職に就任した。目白学園が、ことさら女子教育に熱心で評判になったのは、女高師(現・お茶の水女子大学)出身だった佐藤フユ理事長の功績が大きいからだろう。死去する2年前の1956年まで学園教育の第一線に立ちつづけ、夫の佐藤重遠よりも先に他界している。

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