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東京都の銅像 飯坂陽治

2024/01/28 (Sun) 20:18:41

☆三輪田眞佐子  (指名手配銅像)
【銅像の説明文】
  三輪田眞佐子先生(1843~1927)は三輪田学園の創始者である。
天保14(1843)年京都に生まれ、幼い頃から養父より漢籍の手解きを受け、12歳の時には養父の営む漢学塾で代講を務めるほどの才能を見せた。
明治元(1868)年、岩倉具視の内殿侍講となり子女の教育を任される。
翌年伊予松山藩士、三輪田元網と結婚、新政府に仕える夫と共に東京へ移ったが、夫が官を辞し病となったため、夫の郷里松山へ転居した。しかし夫は死去。
明治13(1880)年、眞佐子先生は身につけた学問を活かして自立するべく、松山城下に明倫学舎を設立した。愛媛県師範学校で教鞭を執りながらの塾運営であった。
明治20(1887)年上京、神田東松山町に翠松学舎を設立した。男女の区別なく入塾を受け入れたが、近代化の進む明治期の社会において女子教育を重視した眞佐子先生は、翠松学舎を女子部のみで運営するようになった。この頃から眞佐子先生は女子教育についての活発な執筆活動を行うようになり、日本女子大学校の創始者・成瀬仁蔵や東京女子高等師範学校長の細川潤次郎、東京専門学校(早稲田大学)の大隈重信らとも盛んに交流した。このような中で日本女子大学校や東京女子高等師範学校などで教鞭を執りつつ、明治35(1902)年には現在の地を得て、三輪田女学校を設立。翌年には高等女学校令によって三輪田高等女学校となった。これは東京で最初に認可された3校の高等女学校の一つである。
眞佐子先生は初代校長となり、養子として迎えた三輪田元道先生が教頭となった。
明治45(1912)年、女流教育者への最初の叙勲として勲六等宝冠章を授与され、昭和2(1927)年には勲五等瑞宝章を授与。同年5月3日逝去された。
主な著書「女子の本分」(明治27)、「女子処世論」(明治29)、「女子教育要言」(明治30)、「女子の務め」(明治43)

所在地:東京都千代田区九段北 3-3-15 三輪田学園 玄関

Re: 東京都の銅像 飯坂陽治

2024/01/28 (Sun) 20:21:28

☆三輪田元道・繁子夫妻
  三輪田元道(1870~1965)は讃岐(香川県)の出身の明治~昭和時代の教育者。明治3年3月7日生まれ、三輪田眞佐子の私塾で学び、明治26年その養嗣子となる。
昭和2年、三輪田女学校の校長、18年三輪田学園理事長。 私学恩給財団(共済組合)の設立など私学振興に尽力、東京都議会議員もつとめた。
昭和40年1月12日死去。94歳。著作「家庭の研究」など、東京帝大卒、旧姓は山下。
  (講談社・日本人名大辞典より)

  所在地:東京都千代田区九段北 3-3-15 三輪田学園 玄関 
 

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