銅像情報共有掲示板

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増上寺の銅像 - 林 久治 URL

2024/03/10 (Sun) 19:27:02

増上寺の銅像
団長様
増上寺の銅像を3基投稿します。勢至丸像は「new日本の銅像ギャラリー」の「東京都港区欄」に収録されていますが、新規情報を投稿します。他の2像は収録されていません。
法然 [幼少期](港区)
設置場所:東京都港区芝公園4-7-35 増上寺大殿前
制作者:不明
設置時期:1982年4月 降誕850年記念
画像提供:ヒロ団長
林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:法然上人(1133—1212)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ比叡山で天台宗の教学を学び、1175年、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。幼名を勢至丸、大師号は、500年遠忌の行なわれた1711年以降、50年ごとに天皇より加諡され、現在では、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。

Re: 増上寺の銅像 - 林 久治 URL

2024/03/10 (Sun) 19:28:46

和宮(港区)
設置場所:東京都港区芝公園4-7-35 増上寺安国殿内
制作者:三代目慶寺丹長
制作時期:1933年
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:和宮(1846年7月3日-1877年9月2日)は、親子(ちかこ)内親王といい、仁孝天皇の第8皇女として生まれました。1851年、6歳で有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約しました。しかし、大老井伊直弼らを中心に公武合体のため降嫁が計画され、1862年2月11日には江戸で14代将軍家茂との婚儀が行われました。しかし、将軍家茂は、第二次長州攻撃のため三度目の上洛中の1866年7月20日、大坂城で病死しました。21歳の和宮は江戸城にとどまり、12月に薙髪して静寛院宮と名のりました。江戸城開城後は江戸に留まり、大政奉還、江戸城開城など新旧体制の円滑な移行や、その後の徳川将軍家の処遇、旧幕臣の救済に貢献されました。1877年8月から、持病の脚気治療のため、箱根塔ノ沢温泉に滞在し、9月2日そこでなくなりました。亡骸は、家茂がねむる増上寺に葬られました。等身大といわれるブロンズ製の御像が増上寺安国殿左脇壇に安置されております。本像は1926年に増上寺で修された静寛院宮50回忌法要ののちに企画され、「和宮様の奉賛顕彰と日本女性の婦徳の涵養」を目的に、1933年正月、鋳造師・3代目慶寺丹長により制作されました。宮中の式日に参内する姿を表したとされています。

Re: 増上寺の銅像 - 林 久治 URL

2024/03/10 (Sun) 19:30:23

明照大師(港区)
設置場所:東京都港区芝公園4-7-35 増上寺明照会館前
制作者:山田良定(1931 - 2002)
制作時期:1979年1月25日 明照会館竣工記念
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:この童形像は明治天皇より賜った大師号を記念する明照会館竣工にあたり宗祖法然上人(1133—1212)幼名勢至丸さまのやがて浄土宗開祖ともなる旅立ちの第一歩のお姿である。原像は浄土宗保育協会が岡山県誕生寺に建立し作者山田良定がこれを復刻しこの地に寄贈した。法然上人の大師号は、500年遠忌の行なわれた1711年以降、50年ごとに天皇より加諡され、現在では、円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師、法爾大師の8つであり、この数は日本史上最大である。

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