銅像情報共有掲示板
京都府と大阪府の銅像(2) - 林 久治 URL
2024/09/28 (Sat) 19:47:27
団長様
京都府と大阪府の銅像を3基投稿します。中川小十郎像と紫式部像は「new日本の銅像ギャラリー」に収録されていません。与謝野晶子像は収録されていますが、新規情報を投稿します。
中川小十郎(亀岡市)
設置場所:京都府亀岡市亀岡駅北1 かめきたリバーサイドパーク入口
制作者:不明
除幕式:2022年5月19日
画像提供:林久治⇒銅像探索記
設置経緯:中川 小十郎(1866年2月18日 - 1944年10月7日)は、明治・大正・昭和時代の日本の政治家(貴族院議員等)で、官僚(文部省官僚等)、教育者(京都法政学校〈現・立命館大学〉創立者等)、実業家でもある。本像横の「中川小十郎顕彰碑」には以下の記載がある。
中川小十郎は、慶應2年(1866年)に亀岡市馬路町に生まれ、致遠館小学校(亀岡東学園の前身)校長の田上綽俊に師事し、漢学に精通しました。その後、叔父でもある中川謙二郎の誘いを受け上京、明治26年(1893年)には、東京帝国大学を卒業し文部省へ入省しました。
西園寺公望文部大臣の「京都にも帝国大学を」の思いを実現すべく、京都帝国大学の創立に参加、初代事務局長として奔走しました。また日本の女子教育にも心血を注ぎ、日本女子大学校の設立に尽力しました。
そして、明治33年(1900年)、もっと多くの若者に働きながら学べる機会を作るべく、京都・大阪の実業家の理解と支援を得て、34才の若きにして立命館大学の前身である京都法政学校を創立しました。
このように日本の教育改革に大きく貢献した亀岡市出身の偉人・中川小十郎の生き方を、生誕地市民はもとより広く全国の方々に知っていただくため、この度、中川小十郎が総代を務めた愛宕神社を仰ぐこの地に顕彰碑を建立するものです。
令和4年5月19日
特定非営利活動法人中川小十郎顕彰会
立命館大学校友会亀岡校友会
学校法人立命館・立命館大学
亀岡市
Re: 京都府と大阪府の銅像(2) - 林 久治 URL
2024/09/28 (Sat) 19:49:36
紫式部(京都市)
設置場所:京都市上京区千本通芦山寺上ル閻魔前町34 引接寺(千本ゑんま堂)
制作者:伊豆立収?
制作時期:2008年の「源氏物語千年紀」を記念して、佐藤美智子さんが寄進
画像提供:林久治⇒銅像探索記
設置経緯:引接寺(いんじょうじ)は、京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町にある高野山真言宗の寺院。山号は光明山。本尊は閻魔法王。一般には「千本ゑんま堂」と通称される。春の念仏狂言で知られる。引接とは仏が衆生を浄土に往生させることである。その名の通りこの寺は、かつての京都の3大墓地であった化野、鳥辺野、蓮台野の一つである蓮台野の入口に立っている。現在でも地獄の裁判官である閻魔の像を祀り、「悪いことをするな」「嘘をついてはいけない」という子供らへの教戒の場となっている。そもそもは現世と冥土を行き来して、閻魔法王とも交流したという伝承のある小野篁(802 –853)が、蓮台野の入口であるこの地に自ら閻魔法王の姿を刻んで祠を建立して祀ったのが当寺の始まりであるという。引接寺の境内の奥には、高さ6メートルほどの大きな石塔が建てられています。この石塔は、紫式部が死後地獄に落ちて苦しんでいるのを供養するために建てられたのだという伝承があり、「紫式部供養塔」と呼ばれています。その理由として、その昔、紫式部はその著書である「源氏物語」が世の風紀を乱したとして、地獄に落とされたという噂があったそうです。この塔は南北朝時代の1386年、円阿(えんあ)上人によって建立されたと刻銘されています。この円阿上人という人は紫式部の子孫だとする話もあるようですが、詳しいことはよくわかりません。石塔は貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されています。
Re: 京都府と大阪府の銅像(2) - 林 久治 URL
2024/09/28 (Sat) 19:53:20
与謝野晶子(堺市)
設置場所:大阪府堺市南海本線堺駅 西口広場
制作者:玉野勢三(1954年大阪市に生まれる)
制作時期:1998年5月29日
画像提供:まるこさん
林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:与謝野晶子(1878年12月7日-1942年5月29日、旧姓は鳳(ほう))は、現在の堺市堺区甲斐町にあった和菓子商「駿河屋」の三女として生まれました。家業を手伝いながら文学会に入会するなど多感な少女時代を堺で過ごします。22歳で上京し、歌の師である与謝野寛(鉄幹)と結婚して12人もの子どもの母となりました。代表作には、歌集「みだれ髪」や詩「君死にたまふことなかれ」があります。歌人として有名ですが、その活動は詩歌にとどまらず「源氏物語」の現代語訳や社会問題、教育問題にかかわる評論など、その表現世界の幅を広げてきました。特に評論文は、現代にも通じる普遍的なメッセージを発信し続けています。1942年に63歳の生涯を終えます。本像は、堺陵東ライオンズクラブの寄贈。