銅像情報共有掲示板

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東京都・多摩地域の銅像 - 林 久治 URL

2024/10/13 (Sun) 09:20:32

団長様
東京都・多摩地域にある3基の銅像と1組の銅像を投稿します。3基の銅像は「new日本の銅像ギャラリー」に収録されていません。1組の銅像は収録されていますが、新規情報を投稿します。
井口基成(調布市)
設置場所:東京都調布市若葉町1-41-1 桐朋学園芸術短期大学 旧館2階
制作者:佐藤忠良
設置時期:1988年4月11日
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:井口基成(いぐち・もとなり、1908年5月17日 - 1983年9月29日)は日本のピアニスト・ピアノ教育家。妹の井口愛子(後に佐藤愛子)と、前妻の井口秋子もピアニスト・ピアノ教育家という音楽一族。東京府東京市日本橋区浜町(現東京都中央区日本橋浜町)に生まれる。東京音楽学校器楽部を卒業後フランスに留学、イヴ・ナットのもとで研鑽を重ねた。1934年、帰国後初のリサイタルを日比谷公会堂で行い、その後活発な演奏活動を展開する。一方で東京音楽学校教授に就任し、教育面でも重要な貢献を果たした。1948年、伊藤武雄、齋藤秀雄、吉田秀和と「子供のための音楽教室」を東京家政学院内に開設。一期生には小澤征爾(指揮者)、中村紘子(ピアニスト)、堤剛(チェリスト)らがいる。「子供のための音楽教室」は、後の桐朋学園音楽部門の母体となった。1955年、桐朋学園短期大学開設にあたり、初代校長をつとめる。

Re: 東京都・多摩地域の銅像 - 林 久治 URL

2024/10/13 (Sun) 09:22:18

齋藤秀雄(調布市)
設置場所:東京都調布市若葉町1-41-1 桐朋学園芸術短期大学 旧館3階
制作者:不明
設置時期:1985年11月15日
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:齋藤 秀雄(1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活動した音楽家。東京市京橋区築地明石町に生まれ。16歳からは宮内省にいたチェロ通の職員からチェロの手ほどきを受けはじめる。その後、暁星中学校を経て上智大学に入学したが、音楽に専念するため退学。1922年には当時作曲家、指揮者として有名だった近衛秀麿に随伴して、ドイツに留学。ライプツィヒ音楽学校に入学してチェロの名教師ユリウス・クレンゲルに学ぶ。1927年に帰国しNHK交響楽団の前身である新交響楽団に首席チェロ奏者として入団。翌1928年の第30回定期では指揮者としてデビューする。1948年には井口基成、伊藤武雄、吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を開設。これが後の桐朋学園の一連の音楽系学科開設につながっていく。齋藤は同学園にて弦楽部門を担当する。門下生だった山本直純によると、齋藤は喫煙中毒者であり、ニコチンが切れると苛立って教え子に当たり散らし、譜面台を蹴り倒して楽譜を散乱させることもあったという。門下生の小澤征爾は高校時代、齋藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともある。

Re: 東京都・多摩地域の銅像 - 林 久治 URL

2024/10/13 (Sun) 09:23:52

舜悦卜山(八王子市)
設置場所:東京都八王子市山田町1688-2 雲竜寺光明霊園 光明観音堂横
制作者:不明
設置時期:不明
画像提供:林久治⇒銅像探索記
設置経緯:舜悦卜山禅師(1507年-1626年10月26日)は八王子・楢原の農家の出身。名は「随翁舜悦」、号が「卜山」。13歳で出家し、山田の廣園寺で臨済禅を学び、越前の永平寺でも曹洞禅の修行をされました。その後、恩方の心源院や遠江石雲院の住職を務めましたが、学徳の高いことで小田原の北條氏照の帰依を受け、正親町天皇から「仏国普照禅師」の照号と紫衣を賜りました。また、多くの寺院の開創にかかわりました(雲竜寺も創建)。武田信玄の娘の阿松は舜悦大和尚に養われましたが、剃髪して信松禅尼と称し一生を終えました。和尚は、身の丈7尺(つまり2m超)。120才まで長寿、実に法職にいらしたのは、107年間!

Re: 東京都・多摩地域の銅像 - 林 久治 URL

2024/10/13 (Sun) 09:26:41

日本再建ノ三大恩人像(八王子市)
設置場所:東京都八王子市山田町1688-2 雲竜寺境内
制作者:不明
設置時期:1987年10月21日
画像提供:ヒロ団長
林久治⇒銅像探索記
設置経緯:本像横の石碑に以下の記載あり。
日本再建ノ三大恩人 銅像建立報恩之記
日本亡国
 1931(昭和6)年9月18日。日本は中国に難癖つけ兵火を開き、侵略拡大11年。彼我疲弊の極、無謀にも41年極月8日、釋尊成道の日、米国真珠湾に無通告の暴挙。鬼畜米英蘭支に正義膺懲の開戦とラジオが天皇詔勅を怒鳴る。更に東洋諸国に無差別侵攻。爾来4年。相手国立ち直り、不意打緒戦の勝利夢と消、陸海空三軍は詐称転進、敗退を続け、遂に全土灰燼に帰す。
 ’45(昭和廿年)盂蘭盆会8月15日、敵五十五ヶ国連合軍に無条件降伏せりと天皇ラジオ放送。二千六百年神州不滅と誇った大日本帝国遂に滅亡。天皇、政府、人民、国土。戦勝国軍下に入り明日の運命分からぬ民草のみ残る。
蔣中正大総統(蒋介石)
 中華民国。14年間全土侵攻され、二千万殺戮さる。東北は奪われ満州国とされ広大国土荒廃に帰す。
 然るに日本降伏となるや、蔣大総統は、「以徳報恩」(とくをもってうらみにむくいん)の大号令を発し、「悉く無事故国へ帰し、賠償等求めてはならぬ。」と厳命。何應鉄将軍は船車総動員。日本軍民二百十万の青壮を僅か十ヶ月にて家郷へ送還させた。
 東北侵攻のソ連共産軍に老幼婦女は凌辱虐殺され、捕虜は酷寒シベリヤ苦役幾年の果て、斃る十幾万。今も残留孤児の哀話絶えぬ例を比較せば、蔣大総統、何将軍、中華人民の大慈悲忘れ得ようか。
 日本の復興これより始まる。
摩訶薩元帥(マッカーサー元帥)
 ’45(昭和20)年8月30日、連合国代表占領軍総司令官 諾楽摩訶薩元帥、厚木に飛来。午後2時05分、コーンパイプを手に丸腰でタラップ下りる姿見て、生き残り日本人はホッと安堵の胸撫で下ろす。
 爾来7年。天皇、政府、官民悉く元帥の命の下に生きる。昨日の敵が今日飢餓に瀕しているを見て、同じく窮乏の本国より物資食料取り寄せて、元帥は一億餓死を救ってくれた。農家は米を隠したが、民家は摩訶薩給与で生き延びて「摩訶薩は神様だ。」と合掌した。まさに菩薩摩訶薩(ボーサーマッカーサー)である。
 足利正明創立の孤児院(村長の反対で閉鎖)、養老院、保育園、老幼すべて米国食料で命を繋いだ。元帥帰国を知り日本民衆は皆泣いた。
謝和得天寧大統領(ジャヤワルデネ大統領)
 ’51(昭和26)年9月4日。米国桑港(サンフランシスコ)にて戦勝五十一ヶ国が日本処分の講和会議である。戦中、日本にゴム等物資を奪取され苦しんだ錫蘭 (セイロン)翠藍華(スリランカ)国代表 謝和得天寧 ジャワエルデネ (現大統領)博士は堂々佛陀の教えを説き、「報怨以恨 恨永劫不尽。忘恨報慈悲」「狂気の戦いは終った。彼我倶に疲弊の今、日本に即時独立を許し、賠償等求めまい。日本は昔の通り亜細亜の兄、亜細亜の老となってくれ。」吉田茂日本代表は感泣し、米国は深考。ソ連圏は脱退し、四十八ヶ国の調印で、日本は分割統治から免れた。
報恩微衷
 主恩忘れぬハチ公は庶民の感動で首都駅頭に銅像となり、人間の師範となる。貴い人の身を享け恩を忘れて恩を忘れては犬畜生に劣る。恩を仇で返えす鬼畜ふえゆく日本はどうなる。
 大被害蒙った敵国の大慈悲で新日本は生れ、今日の繁栄を得た。然るに、物で栄え心で亡びゆく今の祖国を悲しみ、四十余年前の大恩忘れてならぬと子孫に伝うべく、その像をつくり、報恩の微衷を捧げ後世への警鐘とする。
1987(昭和62)年10月21日
  中華民国何應欽将軍九十七才永眠ノ日
  天海山 37世 入笠沙門 曹洞宗大教師 足利正明 並 親友一同

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