銅像情報共有掲示板
九段坂公園の銅像 - 西岡芳文
2025/02/20 (Thu) 12:42:31
1957年以来九段で生まれ育った者ですが、九段坂に沿った細長い公園に品川弥二郎・大山巌の銅像が並んでいます。たまたま昔の絵葉書を見ましたら、今品川像のあるあたりに川上操六の銅像があり、品川像はその右側に写ってます。川上像は戦時中に供出されたと思いますが、いつからそういう配置になったのか分かりません。大山像の所には東京五輪前後まで主を失った長方形の台座だけ残されていたと記憶しますが、川上像の台座は品川像に似た形式(立方体)なので、記憶と合致しません。そこには何の像があったのでしょうかね。大山像はその後他所からここに移されたと記憶します。1966年ごろじゃなかったでしょうか。
Re: 九段坂公園の銅像 - 西岡芳文
2025/02/20 (Thu) 12:47:56
ちなみに、この古絵葉書には田安門の櫓門が写ってますが、戦前に櫓の部分は撤去され、戦後1964年ごろ北の丸公園が造成される時に合わせて復元されたものが現在の田安門です。とすると明治時代の写真でしょうか。
Re: 九段坂公園の銅像 - ワインカラー
2025/02/20 (Thu) 21:41:28
西岡芳文様
こちらに田安門前に建立された2体の銅像の変遷が記載されています。
https://note.com/aratanamai/n/n4d684a766009
川上操六像の建立が明治38年4月で、品川弥次郎像の建立が明治40年12月ですから、絵葉書は明治だとすると末期ということになります。
川上操六像は撤去後行方不明とのことですが、鋳潰されたと思います。
https://rekigun.net/original/travel/statue/html/kudan-06.html
大山巌像の変遷についてはこちらで詳しく述べられています。
https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/14583173
なお、大山巌像についてですが、こちらの2024/05/30投稿文中で述べているように日本ニュース戦後編第69号で旧陸軍参謀本部?前の建立姿、同第136号で東京都美術館裏の空き地で山縣有朋像と共に放置された姿が動画で見れます。
https://douzouhiroba.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=13862890
ストビューで九段坂公園に行ってみました。
西岡さんが見られたのと同じかどうか分かりませんが、大山巌像と公衆トイレの間に長方形の建立物があります。
近くに寄ってみると、漢字を一文字掘った石板が多数貼られているように見えますので、何かの記念碑ではないかと思われます。
Re: 九段坂公園の銅像 - 西岡芳文
2025/02/21 (Fri) 10:27:30
情報有難うございます。関東大震災の後、急峻だった九段坂が改修・拡幅されて現在の景観になったようですね。それ以前は市電は牛ヶ淵沿いに掘り下げられた専用軌道を走っていたようです。坂の両脇に銀杏並木が作られたが、落葉が線路に溜まって電車の車輪が滑って坂を上れなくなり、並木の片側が撤去されたのだと1898年生まれの祖父から聞きました。
この改修に合わせて、それまで通りの反対側(旧住宅公団ビル)にあった常灯明台が九段坂公園に移されたそうですので、もしかするとその時に川上像が品川像の向かって右側に移されたのかも知れません。品川像も関東大震災で転落・破損して造り直されたということですから、震災復興の時にずいぶんいじられているようですね。
子供の頃大山像の移転作業を時々見てましたが、銅像の向かって右側にはめ込まれた銅板の顕彰碑もその時一緒に作られてました。大山像が上野の芸大構内に隠されていた時に、碑板も一緒に保存されていたものでしょう。
それにしても今大山像のあるところに、確かに長方形の銅像の台座が残っていた記憶があるので、それが何の像だったのか謎は残ります。川上像の台座とは違う形だったと思うので。
ちなみに、品川弥二郎は今のインド大使館のあたりに屋敷を構え、川上操六は三番町の社会保険事務所のところに屋敷を構えていた(その後大橋新太郎が買収して自邸とした)そうなので、ゆかりの地に銅像が立てられたということになりますね。品川弥二郎は伊藤博文・桂小五郎など長州藩の若侍と一緒に今の靖国神社の南門の中にあった斎藤弥九郎の道場で剣術修行をしたというので、思い出の地に邸宅を構えたのでしょう。長州閥が靖国神社を建てた時も、そういうゆかりの地を選んだのだろうと思います。
なお常灯明台が昔は東京湾から見えたという説がありますが、旧位置ですと牛ヶ淵から大手町まで一望できるところなので、まんざらあり得ないことではなかったかも知れません。