銅像情報共有掲示板
尼崎市の銅像 - 林 久治 URL
2025/04/12 (Sat) 09:31:50
団長様
尼崎市の銅像を5基投稿します。最初の4基は「new日本の銅像ギャラリー」の兵庫県阪神地域欄には収録されていません。最後の村山実像は収録されていますが、新規情報を投稿します。
松尾高一(尼崎市)
設置場所:兵庫県尼崎市東桜木町3 尼信博物館前 尼信記念館1階
制作者:不明
制作時期:不明
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:松尾高一氏(まつお・たかいち、1888年7月5日 - 1973年5月19日)は、日本の実業家。尼崎信用金庫理事長を務めた。岡山県英田郡作東町(現在の美作市)出身。1912年に関西大学専門部経済科を卒業した。1921年、中江済と共に 有限責任尼崎信用組合を設立。1944年5月には組合長(1951年の尼崎信用金庫への改組後は、理事長)に就任した。1954年1月には尼崎商工会議所会頭にも就任した。1952年に緑綬褒章を受章し、1959年に紺綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章し、1968年には尼崎市名誉市民の表彰を受けた。1973年5月19日、心筋梗塞により死去した。84歳没。
Re: 尼崎市の銅像 - 林 久治 URL
2025/04/12 (Sat) 09:33:46
小森純一(尼崎市)
設置場所:兵庫県尼崎市東桜木町3 尼信博物館前 尼信記念館1階
制作者:不明
制作時期:不明
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:小森純一氏(1847年9月20日 - 1936年)1月12日)はもと尼崎藩士で小森燐寸製造所の創設者。父は元高(維新前の禄高)50石の中層の藩士小森衛。1880年、県より士族授産資金の賃下げをうけてマッチ製造を企て、翌年平岡・吉岡両人とともに資本金1,300円の慈恵社を別所村に設立し、苦心の末その製造に成功した。士族授産事業として成功した県下でも数少ない事例の一つである。1895年町会議員に一級議員として当選して以来連続当選、1896年6月2日から1898年2月7日まで尼崎町長を務め、また市制施行後初代の市会議長となり市会のなかに小森派といわれる勢力を築いた。1886年洗礼をうけてプロテスタントとなり1892年尼崎伝道教会(のち尼崎教会)を設立した。1896年別所村に遊廓設置問題がもち上がったとき嗣子貞次郎が編集責任者の「琴陽雑誌」に反対の論陣をはりその実現を阻止した。尼崎のいま一つの有力なマッチ工場である小嶋燐寸の小嶋敏衛は純一の従兄弟にあたる。1921年、新設の尼崎信用組合の初代組合長となる。
Re: 尼崎市の銅像 - 林 久治 URL
2025/04/12 (Sat) 09:35:27
植木清(尼崎市)
設置場所:兵庫県尼崎市育開明町2-30-2 成調理師専門学校1階玄関ロビー
制作者:不明
制作時期:不明
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:植木清(生没年不詳)・江つ(1926-?)夫妻は、1956年に女性たちの自立を目的に尼崎に花嫁学校(育成女子総合学院)を創設し、洋裁を中心として料理等も教えた。1966年には育成調理師専門学校を設立し、調理や製菓を教えている。清氏は早くに亡くなり、その後は江つ女史が学園長を務めていたが、引退することになった際に、一人息子は別の仕事をしていたので嫁の植木砂織女史が後を継いでいる。
Re: 尼崎市の銅像 - 林 久治 URL
2025/04/12 (Sat) 09:37:43
私は弘法大師像や日蓮上人像は沢山あるので原則的には探索対象から除外しています。しかし、本像は大変優れているので探索しました。
日蓮(尼崎市)
設置場所:兵庫県尼崎市開明町3-13 本興寺本殿横
制作者:出口翠豊(大仏師、松久朋琳の内弟子)
制作時期:2001年11月13日 開宗750年記念
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:本興寺は法華宗本門流の大本山の寺院。開創は、室町時代中期の1420年で、開山は日隆聖人。本像は開宗750年記念で建立。
Re: 尼崎市の銅像 - 林 久治 URL
2025/04/12 (Sat) 09:43:41
村山実(尼崎市)
設置場所:兵庫県尼崎市東難波町2-17-77 尼崎総合医療センター正面玄関前の遊歩道
制作者:抜水政人(1955-)は鹿児島県出身、1976年嵯峨美短大卒。
建立時期:2004年8月15日
現在地に設置:2015年7月1日
画像提供:まるこさん
林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:村山実氏(1936年12月10日 - 1998年8月22日)は、兵庫県尼崎市出身(神戸市北区生まれ)のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。阪神タイガースでは投手として2度のリーグ優勝に貢献。個人ではNPBで合計15個のタイトル(8個) ・主要表彰(7個)を獲得している。闘志むき出しで全身を使った「ザトペック投法」で知られている。2004年8月、出身校である尼崎産業高等学校(旧・住友工業高校)に村山の投球フォームの銅像が建てられた。本像は、卒業生が「後輩の励みになるように」と約1000万円の寄付金を募って校門近くに建立されたもので、高さは台座も含めて2.65mと、ほぼ村山の等身大に近い造型であった。ベースとなったのは1959年に後楽園球場で行われた天覧試合で長嶋茂雄を相手に投げている瞬間で、尼崎産業高校が2005年に尼崎市立尼崎東高等学校との統合が決定、2011年春に尼崎市立尼崎双星高等学校として新発足し、学校は移転した。移転後も銅像は敷地に残されたが、兵庫県は兵庫県立尼崎総合医療センターを学校跡地に建設することになり、2012年には病院完成後に敷地内に村山の銅像を設置することが決定。そして、2015年7月1日に開院した同医療センター正面玄関前の遊歩道に銅像が再設置された。