銅像情報共有掲示板

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東京都23区の銅像 - 林 久治 URL

2025/09/20 (Sat) 19:45:28

団長様
夏季は猛暑のため銅像探索を控えておりましたが、大部涼しくなったので再開しました。今回は、東京都23区の銅像を3基投稿します。最初の2基は、「new日本の銅像ギャラリー」の東京都23区欄に収録されていません。3番目は、「new日本の銅像ギャラリー」の東京都港区欄に収録されていますが、新規情報を投稿します。
遠藤隆吉(豊島区)
設置場所:東京都豊島区上池袋1-21-1 巣鴨中学校・高等学校の校庭
制作者:本像背面にサインがあるが、解読不能
建立時期:1954年11月25日
寄贈者:遠藤隆吉先生胸像建設の会
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:遠藤隆吉(えんどう・りゅうきち、1874年10月2日 - 1946年2月5日)は、日本の思想家、社会学者、教育者。私立巣鴨学園の創設者である。1874年、前橋藩士族遠藤千次郎・はる夫妻の長男として現在の群馬県前橋市神明町で生まれた。1892年、群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を卒業。第一高等学校で学び、1896年に卒業。東京帝国大学文科大学哲学科に進んで、1899年に卒業。翌1900年、東京高等師範学校講師に就任。しかし、遠藤隆吉は徹底した実学主義であり、官僚を嫌っていた。東京高等師範学校が教授として迎えようとした時「私は官学に行くつもりはない」と言って断ったという。1910年5月、私塾「巣園学舎」を設立。自らが理想とする教育理念「硬教育」による英才教育を唱え、文武の鍛錬と人格陶冶の実践の場とした。そのため、当時の私学創設は一般に大財閥などからの寄付等で設立されることが多かったが、遠藤隆吉は個人の私財を投じて学園を創設した。1922年4月、旧制巣鴨中学校を創立。六女・遠藤幸(まさ)の婿・堀内政三は、1956~2007年の51年間、巣鴨学園の第4代校長であった。

Re: 東京都23区の銅像 - 林 久治 URL

2025/09/20 (Sat) 19:49:34

井深梶之助(港区)
設置場所:東京都港区白金台1-2-37 明治学院記念館1階玄関
制作者:佐野文夫(1918-2002)
建立時期:2001年12月26日
寄贈者:天生目(平子)義清
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:井深梶之助(いぶか・かじのすけ、1854年7月4日 - 1940年6月24日)は、日本の牧師。日本基督教会の指導者。明治学院の2代目総理、日本基督教青年会同盟委員長を務めた。会津藩士井深宅右衛門(禄高550石)の長男として生まれた。幼名は清佶である。代々小姓を出している家柄であった、井深は最後の会津藩主松平容保の小姓であった。慶応4年(1868年)15歳の時白虎隊年少組の斥候として会津戦争に加わる。また小姓として松平容保の側で、山川健次郎、高木盛之輔、高峰秀夫らと共に戦った。
本像台座正面の碑文には、以下の記載がある。
明治学院第二代総理井深梶之助は、1854(安政元)年会津藩士の家に生まれ、藩校日新館に学び、戊辰戦争に参戦。のち横浜でS.R.ブラウン宣教師に接してキリスト教徒となり、東京一致神学校を修了して牧師となる。同校助教授、米国ユニオン神学校を経て、1891(明治24)年、明治学院初代総理ヘボン博士の後を継ぐ。以後、在任30年に及び、学院発展の基礎を築くとともに、わが国キリスト教界の指導者として国内外にわたり活躍。退任後も名誉総理として活動を続け、1940(昭和15)年没。

Re: 東京都23区の銅像 - 林 久治 URL

2025/09/20 (Sat) 19:51:58

ヘボン博士(港区)
設置場所:東京都港区白金台1-2-37 明治学院大学7号館(ヘボン館)前
制作者:瀬戸団治
建立時期:1966年3月26日
寄贈者:1962年度生 卒業記念
画像提供:うさぎ屋さん
林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:ジェームス・カーティス・ヘボン(英語: James Curtis Hepburn、1815年3月13日 - 1911年9月21日)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師。
本像台座正面の碑文には、以下の記載がある。
明治学院大学初代総理(現在の学院長)医学博士・法学博士。1815年3月18日アメリカ合衆国ペンシルバニア州ミルトンに生まれ、プリンストン、ペンシルバニア両大学に学び、1841年から45年まで東洋伝道に従事。帰米後、ニューヨークで病院を開業。日本の開国を知り、1859(安政6)年アメリカ長老教会宣教医として来日した。
神奈川・横浜に施療所を開いて近代医術による治療を実施。1863(文久3)年にはヘボン塾を開設し、さらに1867(慶應3)年、いわゆるヘボン式ローマ字を用いて「和英語林集成」を完成した。
ヘボン塾はその後築地大学校、東京一致英和学校となり、1886(明治19)年に東京一致神学校と合流して明治学院となった。
日本のキリスト教界への博士の貢献は、聖書和訳にあったが、また横浜指路教会創建に尽瘁する所も大であった。1889(同22)年明治学院総理に選ばれ、在任2年、1892(同25)年帰米した。ニュージャージー州イーストオレンジに隠棲したが、1911(同44)年9月21日その地において召天した。
博士は「和英語林集成」の版権を丸善に譲渡し、所得を明治学院に寄附された。その寄付金を基金として、学生寮ヘボン館が1887(明治20)年に建てられた。奇しくも博士が召天した同日早朝ヘボン館は出火全焼したが、半世紀後の1966(昭和41)年に新築したこの研究棟を「ヘボン館」と命名した。

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