銅像情報共有掲示板
千葉県我孫子市の銅像 - 林 久治 URL
2025/10/05 (Sun) 10:17:04
団長様
千葉県我孫子市の銅像を3基投稿します。いづれも、「new日本の銅像ギャラリー」の千葉県東葛地域欄に収録されていません。
杉村楚人冠(我孫子市)
設置場所:千葉県我孫子市緑2—5−5 杉村楚人冠記念館1階書斎
制作者:立體寫眞像 発明者.盛岡勇夫
制作時期:1940年7月 朝日新聞社創刊五十周年記念
寄贈者:杉村秀太郎
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:杉村楚人冠(そじんかん、1872年7月25日—1945年10月3日))は、和歌山市で生まれた、本名は広太郎。長じて後の中央大学となる英吉利法学校、国民英学会他で学び、地元の新聞社などを経て、1903年東京朝日新聞社に入社する。そして語学力を生かして海外特派員を務め、明治末から昭和にかけて国際ジャーナリストとして活躍した。朝日新聞社では調査部長、記事審査部長、取締役、監査役などを歴任、その間新聞縮刷版の発行や写真新聞「アサヒグラフ」を創刊するなど新事業にも積極的に取り組んでいる。1923年の関東大震災では2児を亡くすという不幸に見舞われるが、それを機に東京・大森からそれまで別荘のあった我孫子町手賀沼畔に引越した。我孫子では俳句結社湖畔吟社を作り、地元の人々と交流する傍ら、エッセイ集「湖畔吟」を著して我孫子を広く知らしめたり、我孫子ゴルフ場の開設を進言するなど、我孫子の発展に寄与したが、1945年当地で亡くなった。享年73歳。楚人冠は、小学唱歌「牧場の朝」の作詞者としても知られている。
Re: 千葉県我孫子市の銅像 - 林 久治 URL
2025/10/05 (Sun) 10:18:26
村山龍平(我孫子市)
設置場所:千葉県我孫子市緑2—5−5 杉村楚人冠記念館1階書斎
制作者:不明
制作時期:不明
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:村山龍平(むらやま・りょうへい、1850年5月14日 - 1933年11月24日)は、伊勢国田丸(現・三重県度会郡玉城町)に生まれる。実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。1871年に一家を挙げて大阪に移住し、父とともに西洋雑貨商「村山屋」(後に「田丸屋」→「玉泉舎」)を営む。1878年7月に大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の最初の議員に選ばれる。1879年に朝日新聞の創刊に参加。1881年、木村平八・騰父子から同紙の所有権を獲得、上野理一と共同経営にあたる。1888年には「めさまし新聞」を星亨氏から譲り受け「東京朝日新聞」と改題され創刊、翌年から大阪では「大阪朝日新聞」を創刊。1891年に第1回衆議院議員総選挙補欠選挙で衆議院議員に当選。以後、第2回、第3回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。その他、大阪府会議員、大阪市会議員などを歴任。1918年に白虹事件で暴行を受ける。1930年12月23日に貴族院勅選議員となり、死去するまで在任。
Re: 千葉県我孫子市の銅像 - 林 久治 URL
2025/10/05 (Sun) 10:19:34
田口 靜(我孫子市)
設置場所:千葉県我孫子市中里81-3 湖北地区公民館駐車場
制作者:神野義衛(かみの・よしえ、 1919-?)
制作時期:1978年10月22日
画像提供:林久治⇒銅像探索記/f
設置経緯:田口 靜(しずか、1907年8月25日—1977年7月25日)先生は、千葉県東葛飾郡湖北村(現・我孫子市)に生まれ、1933年3月慈恵会医大を卒業し、病院勤務や軍医生活を経て、1944年5月当時無医村であった湖北村で開業。献身的に診療活動を行い、「我孫子の赤ひげ先生」と呼ばれて敬慕された。先の大戦中、明治から昭和初期のワキ方宝生流(下掛宝生流)の大名人・宝生 新が我孫子に疎開して来た時には、田口先生は「常葉会」という会をつくって、30名程の会員がワキ方宝生流の謡を習っていた。戦後は、忠魂碑の建設に率先努力し、1952年11月建設と同時に推されて湖北忠魂顕彰会々長になり、終生その会長として毎年慰霊顕彰の祭儀を挙行した。その他田口先生は、教育文化面を始め各方面に多大の功績を残した。